黒 党 ま つ り
忍者の頭領・伊賀服部一族の奇祭
大河ドラマ「どうする家康」の紀行編で紹介されました
12月4日に三重県伊賀市の伊賀一之宮・敢國神社で、伊賀忍者の頭領、服部一族の奇祭「黒党(くろんど)まつり」が行われます。
毎年「伝統忍者集団・黒党」が伝統の忍術を駆使した忍者ショーを奉納させていただいております。
平安時代末期に、平知盛の重臣として武勇名高い伊賀服部平内左衛門家長は、源平合戦において伊賀者を率いて安徳天皇の親衛隊長を勤めました。
家長は、源平合戦において三種の神器の奪還を命じられた源義経の奇襲を再三かわし、最後は偽の安徳天皇を大勢したてて本物の行方をくらますなど 神出鬼没な活躍から「煙(けぶ)りの末(すえ)」と畏怖されました。
黒党まつりは伊賀服部一族の私祭だったのを平家の全盛期に家長が敢國神社で行うようになったのが始まりと伝えられています。
(団員の中には、敢國神社で黒党まつりを始めた伊賀 家長の末裔がおります)
平家滅亡後も伊賀服部氏主宰の神事として12月最初の卯の日に行われました。
当時は、敢國神社の御祭神の中から少彦名命様と金山媛命様を神輿に奉戴しまして、神社の北東約1.5kmの柘植川の花園河原にお移しし、7日間にわたって流鏑馬や、さまざまな芸能が奉納されました。
伊賀国全域と甲賀郡の一部の豪族を仮設の大座敷に招いて祝宴を張り、一般の観覧も自由でした。
神輿の往復の供奉者は黒装束に身を固めるのが厳格に守られ、服部氏族およびその家人に限られました。
服部氏以外で神事にあたる者は特別に服部の姓を与えて参加することを許したといわれます。
この黒装束が忍び装束でないことは、忍者の全盛期である戦国時代の天文年間(1532~1554)に、黒党まつり用の黒装束を奈良の衣装屋から借りた記録が見られることからも伺えます。
黒装束は、伊賀服部氏のルーツを秘めていると考えられます。
最盛期には伊賀国最大の祭りでしたが、費用がかかることから戦国時代になると途絶えがちになり、やがて廃止されました。
平成7年(1995)に、当時の宮司の熱意により、450年ぶりに復興されました。